倒れ付すとも。

自分が満足して死ねればそれでいいのです。

2018/03/15、不登校の卒業式

忘れないうちに書いておきたいことがある。

不登校だった私は、今日中学を卒業した。

 

卒業式(1)

練習のような何かを重ねて、前の記事で言っていた「ギャラリーから眺めるだけの参加」は結果を言えば出来た。

 

最初対応してくれた先生は、私が“普通”にみんなに混じって参加するもんだと思ってみんなの列に混ぜようと歩き出したが、事情を知っていた他の先生が対応してくれて実現した参加方法だった。

 

想定外に2階ギャラリーも保護者席で埋め尽くされていて、私は保護者に隠れるように座って、2時間半眺めるだけだった。

校歌と国歌は歌えた。保護者の方がすぐ後ろと右と前で録画していた「旅立ちの日に」は私の声が入る事を気にして歌わなかった。

 

目の前が歪み、季節外れのこもった暑さで頭が痛くなる。動悸が激しくなって、酸素が思うように吸えなくて涙ぐんだ。

でもどうにか、やり過ごした。

 

卒業生がはけた隙を狙ってそっと私も先生に先導され帰った。

 

学年主任は卒業式に不満があったらしく、体育館から卒業生がいなくなり在校生と保護者だけになった瞬間に、謝り怒った。在校生に「次の卒業式は君たちがちゃんとやるしかない」と投げかけていた。

最後の日に、気になるほどではない(私は全くそんなこと感じなかった)ことを気にして、いない所でぶち壊すようなこと言うなんて、子供とかわんねぇなと思った。

一回目の卒業式は心中ぐっちゃぐちゃで、これ出る意味あったのかな、と思う。先生の負担とか考えると尚更。

 

卒業式(2)

学校には卒業式に2部という仕組みがある。

みんながいなくなったあと、別室で出られなかった子だけ集めて小さい卒業証書授与式をやる。

もっと簡素なもんだと思っていたが、1番広い会議室に紅白幕を引いてきっちり華やかな花も飾ってあった。卒業生が付けていた造花のブローチも、あり合わせの雰囲気じゃなく普通に当然のようにつけてもらえた。ちょっと嬉しかった。

ユリの香りの中で2部が始まる。

 

CDにあわせて5,6人で校歌を歌った。

淡々と証書を受け取る私たち、感動して誰かひとりでも泣かせたい先生陣。

祝辞も明らかに狙った言い回し、保護者の方からなにか一言!(全員断った)卒業生から一言!(全員断った)

 

極めつけに

「まわれ右!礼!

『ありがとうございました』

ってやって。さん、はい。」

だ。

 

小学校でもここまでお涙頂戴しなかったよ。

なんかしんどかったなぁ。もやもやしたまま、中学の全てが終わった。

 

2部の時間に行った時は、まだ卒業生はちらほら残っていて、通学路を歩くのが怖くて車で来た私を全員が指さして笑っているように感じてちょっと泣いた。それだけ。寂しくも悲しくもなかった。

 

家に帰ってやっと、あー自由だと叫んだ。もう私は「不登校生」じゃない。

「がんばって中学最後の卒業式に出ようとする真面目で頑張り屋な不登校生」になるのも、おわり。

 

そっちの感動の方が強かった。制服を脱ぎ捨てて妹の為にちょっと整えてクローゼットの奥にしまい込んだ。

どっと疲れて、今動かない身体で布団でブログを書いている。

 

まだこれは備忘録だ。落ち着いたら総括を追記したい。

2018/03/07

天候が良好でとくに頭痛なし。

今日も言いたいことはだいたい言えた。

 

昨日、1時間目に学校に行った。

卒業式の練習の見学、というよくわからない要件だけど、怖くて、怖くて仕方がなかった。

 

私は区切りとして中学の卒業式には出ようと思っていて、出るもんだと思っていた。

 

しかし私が希望した妥協案の「体育館後方ギャラリーからの参加」はどうも出来ないらしく、突然、一週間後500人弱の中に放り込まれて全員の前で卒業証書を受け取らなければいけない。想像するだけで涙が出そうだった。

昨日は時間にしておよそ45分しかなかっただろうが、その間ずっと誰か必ず先生方が横にいてくださって、囁くように来てくれて嬉しい頑張ろうね、と繰り返し言われる。

1年の時の担任は逃げ出さないように右手を握りしめ、ひたすら「みんなで卒業式」と唱えていた。怖かった。

 

卒業式って全員揃わなくちゃいけないもんか。中途半端な参加はダメなのか。期待に跳ねた現担任の声が苦しい。不登校な生徒を最後に参加させられたら先生の評価とか上がんのかな、って考える。言われるがまま明日も練習の見学だ。

 

今日の3時間ぶっ通しは無理やり通院日なんだとパスしてやり過ごした。

 

病院の先生に話すと自然と頭の中で感情を客観視できる気がする。

 

道が見えない中で藻掻くのはむちゃくちゃ気力がいるんだけど、今高校合格して入学金も納入して頂きとりあえずまあ高校への道は開け、その中で「やっておきたい」と無闇矢鱈にでなく道筋を考えて行動した方がずっとマシだ。

ただ卒業式が思ったより大変だっただけで。

 

これから塾の春期講習の相談に向かう。高校に向けた学習への意欲は高まってこれた気がしている。ありがたい。病院の先生、薬、両親、本当に感謝してもし切れない。

2018/03/02と、アンナチュラル

ココ最近、金曜夜のドラマ「アンナチュラル」を継続して観ている。

 

不自然な死を遂げたご遺体を解剖して事件の真相に迫る、「UDIラボ」で働く法医学者達の話。

 

命とは。学ぶことが沢山あって、脚本の魅力にも取り憑かれている。

特に心に重く響いたのが今週の第8話と第7話だった。少しネタバレを含む。

 

7話はいじめの絡んだ自殺の話。細かな本編の内容は伏せるが、主人公・法医学者の三澄ミコトの発したセリフ、

あなたの人生は、あなたのものだよ。

 

物語全体の重要な役割を担う、恋人を他殺で亡くした中堂系のセリフ

死んだやつは何も答えちゃくれない

許されるように 生きろ

……が、とても、とても心に沈んでいった。

 

死んだやつは~の前に、自殺しようとした男子高生が

「僕だけ生きてていいのかな、」

と吐き出すのだが、それが余りにも私が常日頃から思っている事だったから、3回見て3回泣いた。

私は誰も亡くした訳じゃない。いじめられてもいない。それでも言葉が心に落ちていく速度は画面の彼と同じで、きっと私が死のうとしている時にそう言われたら、涙を流してその手を止めるのだろう。たぶん。

 

そして今夜の第8話。火災で11人の死傷者が出る。

ある1人の遺族の両親が彼のことをこう叫ぶ。

「ろくでなしが!お前のせいで何人も人が死んでるんだぞ!」

しかし彼は犠牲者全員を助けようとしていたのだった。頭蓋骨を骨折し炎と煙と煤の中で、最期まで、昔勘当されたのに両親を思いながら。

人を救うってこういうことなんだな、と思った。実際に彼は全員を救えなかったものの1人だけは救出に成功、亡くなった後はUDIラボで両親の誤解を解いてもらい泣いてもらう。

 

自分が今までやってきた悩み相談とか、本当にちっぽけで自分に酔っていただけだな、私はきっと彼のように人を救えはしないし永遠に両親に罵られながら死ぬんだな、いや言葉をもらう価値すらないだろうと命の大切さを知ったと言った口のついた頭で考えていた。

 

主人公達が血液を調べたりご遺体の微かな跡を探す度に皮を毟りすぎた唇と手首の傷、掻きむしりの手の甲を意識する。

 

その癖気分によっては高校生活に胸を馳せ制服を着たりローファーを慣らしたりしている。

 

命ってなんだろう。私が持っていていいのかな。許されるように生きれるだろうか。それを学ぶために社会に出るんだと言われたら、学ぶ前に自分勝手に死んじゃわないように気をつけなきゃなぁと思った。

2018/02/21

通院。特筆すべきことはなし。

強いて言えば前回増やした薬の影響が結構すごくてふらつきがちなことか。

相談したら薬が1錠変わった。ロナセンと言うらしい。1日経ったが効いてるかは未知数。薬からしてやっぱり統合失調かな、と感じた。病名があれば楽になれるだろうけど、病名を求める事は迷惑なメンヘラがやる事らしいので通院5回目以降言ったことは無い。

1ヶ月近く喉風邪をこじらせて呼吸困難もちょっとあったのでまあ咳止めがまた増え、気圧に弱い体調のせいで頓服の頭痛薬をまた貰った。

 

漫画を久し振りにたくさん買った。

なんだかこんな不登校生が漫画を読む事に勝手に罪悪感を感じていたのだが、小説よりも楽に読めた。楽しいと思えた。

ゲーム・漫画・アニメの方が小説より手につきやすく実際やりがちなのは、たぶん受動的でいられるからだと思う。疲れない。でも左に積まれた(殆どは父からの)未読の小説が私を待っている。

 

授業に出れるようにするには、最低でも小説を読む体力ぐらい必要だ。無音もしくは騒音の中で集中するということに入学までの1ヶ月取り組まなくてはならない。怖いとか言ってる場合じゃない。

母に春期講習の提案を貰ったので、とにかく今は体力と集中力と精神を安定させコントロールする力を付けなくては。

 

 

それでも周りに生きて欲しくて

自分の甘さを痛感することが多い。

自分より大変でつらい人はたくさんいてそれでも自分の何千倍もがんばっていて、自分とはなんて甘えた存在なんだろうと固まった砂糖を崩すように潰したくなる。

 

高校の書類に判を貰い、入学祝いを頂いた。

人生とは、仕事とは、結婚とは、育児とは、介護とは、なんかそういう事を沢山説教された気がする。

育てて頂いた以上両親二人の介護頑張ってね長女だしね孫もはやくねいい男の人と結婚して普通の人生を送ってね、ダメなら小説かなにかで一発ドカンと当てて、俺たちを話題の人にしてね。

 

100%善意であり間違いなどひとつもないんだけど言われ続けたらできた人間ではないので反論したくて仕方が無い。

正直成人する迄生きていられる自信が無い。たぶん無様に死ぬ。長女の役割も初孫としての期待も放り投げて死ぬ。

ついでに恐らく両性愛者の為いい''男''の人を見つけるとは限らない。お前には独自性だとか特別性が全くないと小学生の頃から言われ続けてきたのでドカンと当てる希望もそんなにない。

ごめんなさい。

 

自己顕示欲は強いのに自己肯定感がないからしんどい、みたいなのがTwitterで出回っていたがまさにそうかもしれない。問題はそれが化け物みたいに増幅しひん曲がったので他人に褒めてもらえる段階にすら私という存在はいないということだ。死ねとしか言いようがない。跡形もなく消えられたらどんなに幸せかとまた自分の幸せを考えてしまう。

 

 

そんな時に今日、私の恩人が死にかけたと聞いて、ああ生きていてくれてよかったと心から思った。生きてるだけで丸儲けってこういうことか。「人って思いの外簡単に死ぬんだ」 と言っていて、私は死にたくても簡単に死なない自分の醜さをまた考えてしまっていた。

 

ニュースで報道される沢山の災害や事件や死について、いつもこの人より私の方が死ぬべきだったんだろうなぁ、代わりたいなとぼんやり思うことをやめられない。それが身近になった瞬間に涙を(二時間遅れだが)流しあなたが生きていてくれてよかったと言い思うのだから、全く仕方がない。

 

多分私はそういう人になりたいしそう思われたい。

自分が死ぬ事を親だからとか家族だからとかクラスメイトだからとかそういうの全部抜きにしても泣くほど嫌がり怖がってもらえるようなそういう人になりたかった。なれなかったけど。だから眩しいその人を追うのかもしれないと反省している。

 

他者中心的に誰かに尽くすように優しそうに見せたくて見せようとして、心の中では全てを私が死んだ時喜んでくださる他人を減らすためだとか本当は自分の承認欲求を満たすためだとか、自己中心的な思いを剥き出しにしている自分が大嫌いだ。

 

自分が嫌いな理由を挙げ連ねるとそんな所なんて誰だってあるよとか言われがちなんだけど、他の人は許されても私はダメなんだと答える。突き詰めれば 

自分は死んでもよくて

周りが死んだら悲しくて

……というある歌の歌詞に結びつく。

 

自分を自分の感情を分析したり整えたり、そういう為に作った場所のはずなのにこの記事は全くまとまりがなかった。