病み垢、というもの。
病み垢
というものをご存知でしょうか。
今こそないが、私は今まで3回「病み垢」を作り、そこに愚痴やマイナス感情、気分を書き記してきた。
不登校・ストレスを溜めがち・極度に人間関係が苦手、などを抱えTwitterに逃げ込む人々への理解に繋がればと思い、記すことにする。
病み垢とは。
簡単に言えば愚痴用のTwitterアカウント。ニックネームの後に@病み垢、とついていたりする。アカウントは=垢と略される。
主に女子中高生から二十代前半の方が生息している領域。
しかしその中にもいくつかふんわりとした段階?○○派?があり、1発で見分けるのは困難。
あえて説明するのなら、
- 単純に愚痴を吐いているだけの垢
- ↑に加え自傷行為画像を公開する垢
といった感じだ。また使う人のポリシーで鍵(自分が許可した人にしかツイートが表示されない機能)をかける、かけない、その他微弱な差がある。
傷の舐め合い、集団自殺など、危険な印象がありがちな病み垢だが 私達にとっては最後の砦だったりするのだ。
まずタイムラインに飛び交うのは「死にたい」の文字。実はストレスや自責感を言語化できずにやっと吐き出した四文字だったりする。
基本的に自殺願望のある人は自殺方法を熟知し死ぬラインも分かっていて、それでいて苦くて苦しくて喘ぐように発してしまう言葉なのだ。
ただ「死にたい」を現実に言ってしまえばどうなるだろう?
迷惑は測り知れない。親、友人、全てを困惑させ心を荒立たせるだろう。たぶん、それがわかっていてネットでしか吐き出せない優しい人が多いと思う(私と絡んだ人はそうだった)。
緊迫した雰囲気で長文の愚痴を雪崩のように叫ぶ人も、ある程度経ったら落ち着いて投稿を消し出したりする。病み垢とは誰にも相談出来ない優しく不器用な人が沢山いる場所。
みんながみんな「病んで」いるから、みんな思う存分愚痴を吐いている。その愚痴も理解を得られやすい。不登校やひきこもりが孤立し同年代の友達も理解も受けられない時、理解者の友達が得られる場所。
まさにどうしようもなくなった時の最後の砦。
また、一定の割合で自傷行為の画像をアップする人がいる。大体鍵を掛けて一般の人の目に触れないように気遣うが、鍵をかけると「RT」が出来なくなる。その不便さが、という理由で鍵を掛けず誰でも見られる状態にしてしまう人が多い。
そもそもTwitter社のルールとして自傷行為・示唆の投稿や画像はやめなさい、という項目があるのでこれは結構スレスレの行為。私は「不適切設定」(クリックした人しか見えない)を利用していた。
ではそこまでしてどうして自傷行為の写真を上げるのだろう?
私の場合、ひとたび寝れば自傷行為中の記憶があやふやになってしまう。なので投稿時間から切る時間を、画像から傷の程度を確認することが出来るのだ。具体的な数字があれば病院の先生に伝えやすくなる。
また病み垢の友人には、
自傷行為中に画像を上げることで何故かスッキリし傷が少なく済む。
という人や
自傷行為が出来ない時に見ることで衝動を抑えやすくなる。
という人がいた。もっとも何も考えていない人も多いが目的を持ってアップする人も少なくない。
自傷とは現実では目をつむられたり背けられたりされがちな行為だ。理解者である同じ病み垢ならば、叱られることもなく「傷付けたいほど辛かったんだ!!」と言える。肯定も否定もされない。むしろ肯定のが多い。あなたも辛いんだね、程度。
それが「病んだ」状態の人には涙が出るほど嬉しいことなのだ。
……と、病み垢出身者から擁護してきたものの避けては通れないのが自殺問題。
吊られたロープや高所からの景色、大量の薬、動脈まで達した大きな傷などの写真を最後に、突然フォロワーが居なくなったりする。
それに影響され、早かれ遅かれ死のうとしていた人が自殺を試み出すことは多い。
そこで踏みとどまれる人が今生きている。
もし娘さんや息子さんや大切な人が1日中病み垢に貼り付いているとしたら、それだけは考慮しなくてはならない、と思う。
他の愚痴を吐くことや自傷行為を零すことはどうか許して欲しい。そうやって僅かなスッキリ感だとか嫌な事を言い切る快感を頼りに生きている人も少なくないから。
それでも仲の良かった友人や遠くの仲間が死んでしまうとショックから希死念慮がどんなに深くしまってきつく縛って鍵をかけておいたものでも簡単に飛び出してしまう。きっかけが生まれる。そこで命を呆気なく失ってしまえば、終わりだ。
きっとすぐには届かないし伝わらないし実際私も信じ切れていないけど、自殺を止めたいなら唯一無二のかけがえのないあなたが好きなのだと、「私」は生きていてほしいんだと伝えて欲しい。
殆どの人は自己肯定感が枯渇している。自分の判断は信じられない一方で死んだ方がいいというのは頑なに信じきっている。
あなたの思いは無視してでも「私」が生きていてほしいと、未練を残そう。いざ死のうとした時に顔が言葉がチラつくように。
私が病み垢を出れたのはそういう人がいたからだった。根本的にはそうだ。その上に葬式代は今の家庭じゃ出せないなぁとか物理的な迷惑で理論武装して、やっと愚痴を吐く仲間に依存しなくても大丈夫にこしらえた。
たぶん手首を切り始めてから2、3年位の話。
依然として私は中学に行けないけれども、病院の先生がいうには回復傾向らしい。
今思えば病み垢界隈とは「患者の会」みたいなものだと感じている。よく病院に貼り紙されているアレをネット上でやっていただけ。ただ見た目が、ネット依存にしか見えないから批判もあるのだろう。
みんな、その「見た目ではわからない」ことを発症し苦しみ、理解されなくて泣いている。
誰にも見えないのなら自分自身が変えていくしかない。だけどそれまでの間に思い切り悲しみに沈んで、理解者だけの空間で息をする時間も必要な人だっていると思う。
という訳で、何が言いたいかよく分からん記事ができてしまったけど、メンヘラの戯言がいつか誰かの役に立てばと思わずにはいられない。