倒れ付すとも。

自分が満足して死ねればそれでいいのです。

受け入れる

悲しみと苦しみに襲われる。

 

トリガーはちょっとした歌の歌詞やちょっとした誰かの優しい言葉であって、そこから前泣いた時以来ずっと溜めてきた沢山の悲しかったとか苦しかったとか辛かったとかが吹き出して泣く。

 

 

私は感情が全部一気に吐き出せない。

幼稚園児だって知っている「ごめんね」「いいよ」が自分自身にできないから。自分の心が

「ぼくはあいつにごめんって思ったし、ごめんって生きてきたからもう許されてもいいんじゃないか、許してくれ」と怒って

「いいよって言ったけど許せないよ、一言で許せるもんか、本当はあんなに悲しかったのに辛かったのに」と悔しがる。

 

笑って我慢したり笑い話にしてコミカルな愚痴にして全部解決した体にして、あとで見ないふりをしたなにかが集まると塊の化け物になって袋小路で殴って殴って私を粉々にするまでやめない。

 

今の時代声も表情も気持ちも全部ネットを経由してある程度は共有出来る。交信が出来る。でも人の体温も直接的な優しさも即物的な愛も、電波に載せることは出来ない。

 

いつかある人は、私が深く暗い袋小路に怯えていた時に、私の側にいれたのなら涙を拭ってあげたいと言ってくれた。でも私とある人の距離は信じられないほど離れていて、成人してやっと会えるだろうかみたいな距離だ。

Twitterのお陰で想いを交わせた。楽しいし嬉しいし救われた。でも実際私が欲しているのはたぶん優しい人の体温と自分が生きる事を隣で常に誰かが許してくれることだ。

 

お母さんにもお父さんにもかわいい妹にも恵まれて、友人にも恵まれて、それでも私は望むことをやめない。なんと馬鹿らしい恵まれた者の発想だ。気持ち悪い。

いつか昔に自分でどっかを歪めてしまった。

誰かに愛されたい。許されたい。血縁の母であるとか父であるとか気にかけるべき友人であるとかそういう義務感から生まれたものでは無い優しさが欲しい。そんなん簡単に言語化できないからとりあえず体を切り刻む。暖かい血が伝う時に撫でられたような快感を感じる。

 

汚い。我ながら汚くて仕方が無い。他人から見たら反吐の方がマシかもしれない。

それでも私は定期的に遅れてやってきた悲しみに殴られようが生きていかなくちゃいけない。死にたい死にたいと数え切れないほど自殺未遂した。でもどうにかこうにか中学を終わらせた、高校生をやってちゃんと仕事をやって生きて、普通に、まじめに、生きていかなくちゃいけない。

 

殴られたって立ち上がらなくちゃ、全てが無駄になるんだから。そっちの方が多分きっとしんどいから。今がしんどくても大部分が気にせず過ごせるなら、私はこの化け物に殴られる事を両手を広げて受け入れる。